(魏志倭人伝の解釈)
不弥国から南へ行くと投馬国、更に南へ行くと邪馬台国。この南は東の誤り。投馬国は今の山口県防府市。瀬戸内海を船で行き、10日後山陽の何処かに上陸し、陸を1月で大和に達した。
倭人伝の編者陳寿は、日本列島を東西に延びているのではなく南北に延びていると思っていた。従って、大和を不弥国から東なのに南と思いこんでいたのである。行程を考えれば邪馬台国は当然大和となる。
以上のように近畿説では、倭人伝の方角の南を東の間違いであるとする説が一般的です。
当時は太陽が昇る方向を東と考えており、朝鮮半島から魏の使節が船で来航しやすい夏には、実際の東は時計と反対回りに45度ずれることになる、近世以前の中国の地図では日本列島が南に延びるように描かれている例がある、というのが根拠になっています。
(考古学的解釈)
考古学の遺構・遺物をめぐる解釈では、魏志倭人伝で卑弥呼が魏よりもらったとされる銅鏡100枚が主要な論点となっています。
卑弥呼が魏から貰った銅鏡は三角縁神獣鏡と呼ばれるものであるが、これは畿内から多く出土し、九州や関東でも出土する。これは、邪馬台国がその勢力下に従属した地域の王に魏が卑弥呼にしたように鏡を配った結果ではなかろうか。古墳時代の前、即ち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。邪馬台国は大和にあった証拠である。
魏と邪馬台国が交流していた3世紀後半には九州の文化所産は貧弱となり、畿内の古墳の方が副葬品が立派である。また近畿地方の古墳からは一つの古墳から多くの中国製の鏡が発見されており、文化的に近畿地方の方が進んでいる。当時の中国と交通があった事が、この文化の進展を促したのである。従って、卑弥呼も大和朝廷の権力者の一人であった。
魏志倭人伝には卑弥呼が死んで径100歩の墓を作ったとあるが、この規模は奈良盆地にある箸墓古墳にちょうど符合する。こうした大規模な墓は当時の北部九州地方には無い。
箸墓古墳の近くにある弥生時代終末期の大規模集落、纏向遺跡からは、東海地方をはじめ他の地方の土器が多数出土している。ここに、日本各地を支配するような大きな勢力があったことを窺わせる。
三角縁神獣鏡は中国で出土例がないことなどから魏の鏡であることを疑問視されているが、1994年に京都府丹後から「青龍3年鏡」(235年)が発見された。これは明らかに魏の鏡である。卑弥呼は4年後に魏から銅鏡をもらっているが、その一部と考えてもおかしくない。