弥生時代の集落と墳墓の変遷は弥生時代の社会がクニを成立させ、クニグニが連合して政治的社会を形成していく様子を表したものです。それは大きく四つの段階を経ると考えられます。
農業開始期の社会的様相は一様ではありませんが、水田稲作の技術を携えた人々が渡来したと考えられる福岡平野等では、板付遺跡に代表されるようにこの段階から環壕集落が出現します。この段階の環壕集落は新しく渡来した人々のコロニーの戦略的拠点であり、これらの人々と縄文時代以来の土着の人々との間に、戦いがあったことを窺わせます。
農耕の広がりにより人口と集落数が増加し、土地の権益をめぐる戦いが顕著になっていったと考えられます。環壕集落の数が増加し、次第にそうした環壕集落を中核とした集落群(地域社会・クニ)が成立してきます。北部九州地方では銅剣を副葬する甕棺墓が現れます。戦闘では剣が武器の主流となったことが窺われ、戦闘の指導者が次第に社会の指導者として成長し、首長としての身分を確立していったと考えられます。新たな社会の統一原理として祖霊信仰も出現してきたと思われます。
墳丘墓など祖霊祭祀の対象となる墳墓と祭殿などの祭祀空間、居住区、工房などを備えた中核的大規模環壕集落が成立します。青銅製の武器が大型化し実用品から祭器となります。武器の祭器化は武器形祭器を用いた戦神・軍事的祭儀が祖霊祭祀と合わせて社会結合の重要な構成要素となっていったことの表れと捉えられます。この段階では、「クニ」の領土拡張、あるいは「クニ」の領土防衛といった戦略的戦いが行われるようになったと考えられます。
中核的大規模環壕集落は施設・設備を拡充し、頂点とも言える形態を整えます。しかし、その後、徐々に徐々にあるいは急速に解体し、やがて姿を消していきます。この段階では、交易の拡大・領土の保全を共通利害とした「クニ」の連合化がはかられ、一方でより広い領域の覇権をかけた戦いが行われるようになったと考えられます。恐らく『魏志倭人伝』に記されている「倭国大乱」はこの段階の戦いを示していると思われます。新たに拡大していく政治秩序のもと、中核的大規模環壕集落を構成した首長の墓、首長の館、祭殿、クニの戦略的物資を納める倉庫群などは再編され再配置されていったと考えられます。