中のムラ
中のムラ~祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所~
吉野ヶ里の最も重要な場所である北内郭で行われる祭りや儀式、政事に使ういろいろなものを神に仕える司祭者たちが作っていた場所と考えられています。神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられています。なお、現地にはありませんが、こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居もこの近くにあったものと考えられます。
中のムラと祭祀
中のムラは祭祀権者の祭祀儀礼の補助等を行う祭司者達の生活の場であったと考えられます。ここでは、こうした祭司者達が祭司儀礼に必要な祭具や祭器を制作したり、祖霊に捧げる供物の調達や調理を行うなど、祭祀のための仕事を行う様子が見られたと考えられます。祭りの日に使用する酒の製造や祭祀権者が祭りの日に身につける衣服の制作なども、中のムラの祭司達の重要な仕事であったと考えられます。
また、祭司者達の暮らしのための労働に従事する下層身分(生口)の人々も存在したと想像できます。
中のムラは北内郭という祭祀的な性格の強い地域の手前にあって、例外的に生活の場としての様相を示している場所です。こうしたムラのあり方から、「中のムラ」は、北内郭を中心に行われる祭祀権者の祭祀を補佐し、その世話をする祭祀者が暮らす場所であったと想定しました。
中のムラでは祭祀者が暮らし、祭祀に使用する祭具の制作や供物の用意、祭祀者が身につける衣服の制作などのほか、下層身分の者による雑役なども行われていたと考えられます。
なかでも祭りの際、衣服の制作は神聖で重要な行事であったことが『古事記』、『日本書紀』等の記述からうかがえ、「中のムラ」の竪穴建物のうち大型で炉のない物については、こうした衣服の製作場所であった可能性も考えられます。
養蚕
糸紡ぎと機織り
酒造り
祭具づくり
祭政を司る支配者層の身分・職能的特質
吉野ヶ里環壕集落は「クニ」の祖霊と地霊を祀る特別な「クニ」の中核的集落としての地位を保持していたのであろうと考えられます。
この集落に暮らした人々は支配者層である大人層が中心であると考えられます。大人層の主たる身分・職能は最高司祭者に仕える祭司者と「クニ」の政治、行政を司る行政官であると、『魏志』倭人伝の記述等から想定しています。
先述した吉野ヶ里環壕集落の性格や古代文献等から窺える祭祀と政治が一体的で「祭政」として機能していた古代社会の状況等からみて、祭司者的身分・職能と行政官的身分・職能は明確に分離しておらず、大人層はすべて祭司者的な身分・職能を保持し、それが政治・行政を司っていたと考えられます。
祭司者の役割分担
古代文献などから、祭祀を司る祭官には大きく次のような役割分担があったことが窺えます。
祭具を司る
祭りの際に鏡、玉、剣などの祭具を奉ったり、祭具の製作にあたる役割。古代豪族では大嘗祭の際に新天皇に神璽の鏡と剣を奉る忌部氏など。
言葉を司る
祝詞など祭の際の特別な言葉(詞)を司る役割であり、古代豪族では大嘗祭の際に天神之寿詞を奏す中臣氏など。
『古事記』『日本書紀』の仲哀天皇の条には仲哀天皇が琴をひき、神がかりとなる神功皇后の言葉を建内宿禰が「狭庭(サニワ)」で聞く様子が記述されており、古くは最高司祭者の神がかりとなった言葉を聞き、これを伝える役割があったことが推測できます。
『魏志』倭人伝には、唯一人卑弥呼のものに出入りして、飲食を給し、女王の言葉を伝える男子がいたことが記されていますが、この男子が仲哀記における建内宿禰のような役割であったことが想像できます。
芸能を司る
祭の際に歌や踊りを奏する役割。古代の宮廷における猿女など。
その祖先は天照大神が天之岩戸に隠れたときに笹の葉を手に持って桶を伏せて、これを踏みならしながら踊ったアメノウズメノミコトであるとされています。弥生時代にも祭で踊りや歌を披露する職能の祭司者がいたことが想像できます。
供物を司る
主に神に捧げる食物(ミケ)を司る役割。古代豪族では宮廷の供御を司った膳氏。伊勢神宮の『皇太神宮儀式帳』などにもミケを司る神宮が存在したことが見えます。
占いを行う
鹿の骨を灼き吉凶を占う太占(ふとまに)などを行う役割。古代豪族では卜部(うらべ)氏など。
律令期にはこうした役割の枠組みの下に多くの階層が設けられ、それを統括する身分として先にあげた豪族が存在しました。弥生時代後期末にはそのような階層分化と職能の細分化はまだ行われていなかったと考えられますが、大きな役割分担の枠組みは存在したと考えられます。
中のムラの居住者達の性格
中のムラの居住者は『魏志』倭人伝にみえる卑弥呼に仕える「婢」に相当するような、最高司祭者の祭祀を補佐しその生活の世話をする祭司者と想定しています。
祭司者的性格を有する大人層のうちこうした役割を担った者は恐らく後の天皇の側近くに仕え、その日常の世話に当たった釆女のように、そうした役割を果たすべく各「氏族」からそれぞれ選ばれた者であったと想定できます。
祖霊への供物の製造や調達、最高司祭者の食事の支度や衣装などの製作、北墳丘墓、南祭壇などへの供物の奉納と祈りなどを行ったことが想定できます。
服装
当時の服装を推定するため吉野ヶ里遺跡出土の絹、麻などの遺物、『魏志』倭人伝の記述、弥生時代の絵画土器や銅鐸に描かれている人物を主な資料としました。また時代が下がる人物埴輪に見られる服装や高松塚古墳壁画、天寿国繍帳、同時代の中国の画像石なども参考としています。
これらの資料の他に服装を考える際の一般的な要素として祭などのハレの日の服装と、日常の服装、階層差、性別、年齢による区別も考慮しました。
吉野ヶ里遺跡出土の布
吉野ヶ里遺跡からは絹および麻が出土しています。これらの鑑定にあたった布目順郎氏によりその概要、特色は以下のように整理されています。
家蚕の絹である
出土品は繊維断面形より見ていずれも家蚕の絹であり、楽浪系の三眠蚕と華中系の四眠蚕があります。このうち、華中系は中期初頭、中期前半の甕棺から出土し、楽浪系は中期後半、後期初頭の甕棺から出土ました。
日本製の絹である
中国漢代に絹と織り密度や繊維断面計測値を比較してみると、顕著な違いが認められ、日本製の絹であると考えらます。
他の弥生時代遺跡には見られない繊細優美な透目絹が存在する
吉野ヶ里遺跡出土の絹はほとんどが透目のものであり、織りはやや粗末なものと繊細優美なものがあります。このうち後者に属するような繊細優美な透目絹は、これまで他の弥生時代遺跡から出土例がなく、吉野ヶ里に高度な絹織物の技術が存在したことを窺わせます。
このことから、筬をもつ絹機のようなものが既に導入されていた可能性が考えられる。透目絹は華中方面の古代絹に多く、華中方面との交流が考えらます。
染色された絹が存在する
透目絹の中には、一見して染色されているものが幾つかあり、前田雨城氏らの研究グループが分光蛍光光度計による測定と解析を行った結果、日本茜と貝紫が検出されました。これにより、赤と紫に染められた透目絹が存在したことが確認できます。
麻布が出土した
これまで弥生時代の甕棺内から、絹は出土しましたが麻布は出土していませんでした。吉野ヶ里遺跡では、二つの甕棺から大麻を材質とした麻布が出土しました。大麻布はいずれも織り密度で高度の織布技術を持っていたことが窺えます。
袖を縫いつけたものらしい絹が発見された
墓の中に縫い糸を持つのが存在しました。縫いつけ箇所で糸の方向が90度異なっており、身頃に袖を縫いつけたものであると推定できます。
庶民(下戸層)の日常着
『魏志』倭人伝は倭人の服装について「男子は皆露し、木緜を以て頭に招く。その衣は横幅、但結束して相連ね略縫うこと無し。婦人は被髪屈し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。」と記述しています。
倭人伝の記述の解釈と復元には諸説があり、未だ決着を見ていません。
男子の衣服の形態については高橋健自氏の「袈裟式説」と猪熊兼繋氏の「織った布を横糸の広さのまま並べ合わせて綴くった布」とする説が著名です。女子については「一幅の布の真ん中に縦の裁ち目を作って、これから頭を貫き、両ワキを綴くり合わせて、その合わせ目の上をあけて両腕を出した」とする説が一般的です。
これに対して、本基本設計の委員でもある武田佐和子氏は「男子の服(横幅衣)と女子の服(貫頭衣)は着装状態から言えばほぼ同一の形状を示すことになり、二種の異なった形態の衣服を指すのではなく、男女に共通して着用された衣服の、一つは製法上から出た、また今ひとつは着装法上から出た名称であり、同一の実体を指すものであったと考えてみたい」と述べています。
そして、その根拠として弥生時代の織布の幅は30センチ前後であったと考えられ、一幅で身幅を覆うことの出来る布幅を持ち、その中央に穴を開けて頭を通して着用するという貫頭衣は、製作することが難しかったと考察しています。
武田氏の見解に基づき、男女とも布を二枚、頭と腕の出る部分を残して脇で綴くりあわせる形態の衣服を検討しました。また人物埴輪や高松塚古墳に見られるようにその後の古代日本の衣服が一貫して前合わせであることや同時代の中国の衣服も前合わせであることなどから、前合わせで腰紐を使用する形態を考えました。
なお、こうした形態の衣服は最も一般的であり、庶民(下戸層)の日常着であったと考えられます。
上位身分(大人層)の日常着
吉野ヶ里遺跡では富裕層に属すると考えられる人物を葬った甕棺から身頃に袖を縫いつけた絹が出土しており、上位身分(大人層)の衣服は庶民の衣服と異なり袖付きであったことが推定できます。
その他の形態は基本的に庶民層の衣服と異ならず前合わせの貫頭衣であったと考えられます。布が貴重品であったことを考えると、全体的に庶民の衣服より布をたっぷりと使ってゆったりした印象の衣服であったと考えられます。
また庶民は農業労働などに従事するため膝上程度の丈の衣服であったと考えられるが、大人層の衣服の丈はくるぶし上程度まであった可能性があります。前合わせの部分をとめるための品物も紐ではなく帯が使用されたと考えています。
上位身分(大人層)の祭(ハレ)の衣服
埴輪や高松塚などの人物画から基本的にツーピースで下半身に衣裳をつけ、上半身は上着となる衣装を着用していたと考えられます。こうした上着は埴輪では男女とも喉元あたりから左下方へ斜めにあわせた形式が多いです。しかし弥生時代の衣料生産量を考えると、衣料の節約のため真ん中あわせにしていた可能性が高いとしています。
なお布目氏はこれを上位身分の人々のごく平均的な平常服としていますが、平常服ではなく特別な行事の時に着用するハレの衣服と位置づけています。こうした衣服は大人層の身分の象徴であり、非常に貴重なものであったと推定できます。
髪形・装飾品・履物
髪形
吉野ヶ里遺跡の甕棺から美豆良(ミズラ)を巻いた頭髪が出土し、成人男性は美豆良をゆっていたことが確認されました。
倭人伝の記述によれば男性は布を巻いていたことになります。女性は髪を結ったりお下げにしていると記述されています。
『古事記』でヤマトタケルが女装してクマソタケルに近づく記述「乙女のように髪をお下げにして」と言う表現があることや多くの民族事例で女性が既婚が未婚かにより髪形を変えると未婚者はおさげ髪を結った可能性が考えられます。
女性司祭者は『魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述などから未婚であったと考えられるため、おさげ髪であったと想定しました。
装飾品
主な装飾品として翡翠やガラスの玉(管玉、曲玉)からなる首飾り、銅製、ゴボウラ貝などの南海産の貝を使用した腕輪、簪、櫛などの髪飾りがあげられます。櫛は髪をとめる目的の他に頭髪の清潔を維持するために梳る機能を持っていたと考えられます。
『古事記』等の記述によると男性も櫛を髪に挿していた可能性があります。この他、剣などの武器類は男性の身分を示す威信材として身につけられていた可能性があります。
履物
『魏志』倭人伝では裸足であると描かれていますが、吉野ヶ里遺跡をはじめ北部九州の遺跡では板を浅く刳った木製履物と考えられる遺物が出土しており、上位身分の人々の履物として中国の例から革製の沓を想定しています。