北内郭
北内郭~まつりごとの場所~
吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられています。田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と考えられています。また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には最高司祭者(祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に祖先の声を聞いてもらい、その声に従って決定していったと考えられています。
主祭殿
柱の太さ・間隔から3層2層建ての高床建物となると考えられ、古代中国の建物に関する記録や民族(俗)例等から、中層と上層は異なる機能を持っていたと想像できます。
中層部分は政治の場と想定し、また、祭りの際には直会の場としても利用された物として、共同体にとっての重要な決定を行う際の支配層の集会を行う場としました。
上層部分は南北の主軸が一致する建物はもっとも祭祀性の高い場であったことが考えられるため、最高祭祀権者が祖霊に安寧と豊饒の祈りをささげる場として復元しました。
主祭殿2階
主祭殿3階
鍵形に折れ曲がった入口
屋根倉、高床住居、高床倉庫
屋根倉
高床住居
高床倉庫
東祭殿、斎堂、物見櫓
東祭殿
斎堂
東祭殿と主祭殿の間にある高床の建物です。主祭殿の祀りの前に身を清めたり、祀りの道具を保管する場所として使われていたと考えられています。
物見櫓
環壕・中壕
- 外壕は、丘陵袖部を巡るように掘削されており、外壕で囲まれた範囲は、南北1km以上、東西は最大で0.5km、面積は40ha以上と考えられます。
- 基本的には、丘陵袖部の傾斜が弱くなった部分に掘られていますが、北部では北墳丘墓を取り囲むように丘陵袖部に上がっています。断面形態は、南西部分は逆台形、それ以外の部分はV字形を呈します。規模は幅2.5mから3m、深さ2m前後が一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mを測ります。
- 堆積土層に関しては、地形的に低い壕の外からも地上ローム土が堆積しているため、壕の外に土塁が存在していたものと考えます。
- 中壕・内壕の2条の壕によって囲まれています。断面形態は、いずれも逆台形で、壕内の堆積土層から、外壕と同様に壕の外側に土塁を設けていたと考えられます。
- 外壕より規模が小さく、防御的性格より、範囲を画する結界的な機能を有するものと考えられます。
- 他の遺跡を参考に、祭祀的性格の強い北内郭の機能を考慮して、壕の外側に土塁を設けその上に、坂塀を設置することとしました。
周囲を囲む板壁
- 北内郭では、南西部に中壕・内壕ともに、壕の腰の土橋の出入り口が設けられています。
- 中壕と内壕の位置がずれていることから、鉤型に折れ曲がった通路や柵列跡が検出されています。
- 祭祀的性格の強い北内郭の機能を考慮して、北内郭の門は、扉を伴う形態としました。
北内郭居住者の役割
北内郭には、最高司祭者とその従者がいたと想定しています。従者の存在は先述した『魏志』倭人伝の卑弥呼のもとに唯一人、出入りする男子がいたとの記述に従って想定しています。
この従者は、最高司祭者の神がかりとなった言葉を聞く役割を果たしていたと想像できます。
北内郭の祭祀
北内郭から北墳丘墓および周辺の区域は集落内でもっとも祭祀的性格が強い場所であり、「クニ」の中核的集落であることから、祖霊への豊饒祈願や冬至・夏至など節気に関連する祭祀など、様々な祭祀儀礼が行われた場所であるとともに、祭政を司る祭祀権者とこれに従う一般祭祀者による祭祀儀礼を中心とする生活の場であり、祭祀を総括する最高祭祀権者もここに居住していたと考えられています。
北内郭は吉野ヶ里環壕集落の祭祀儀礼の中心地であり、祭祀を中心に様々な祭祀儀礼が行われていたと考えられます。日常は北内郭に住む祭祀権者が、主祭殿の3階に設置された祭殿に向かい、祖霊に対して豊穰と安寧を祈る儀礼を日々行ったと推定できます。
また天災や戦争等の非日常的な危機に見舞われた折や重要な政治的決定を行う時には、祭祀権者は、ここにこもり、祭壇の前で祖霊と交感し、祖霊の託宣を聞くための儀式(神がかりの儀式)を行ったと考えられます。こうした時、主祭殿の2階には政治権者や支配層(大人層)の人々が祭祀権者の託宣を聞き、政治的決定を行うため集まっていたことでしょう。作物の豊かな穰りのために天候を占うことも祭祀権者の大切な役割であった可能性が高いです。殷代の中国の王は10日ごとに次の10日間の天候を占ったとされていますが、吉野ヶ里環壕集落の祭祀権者もあらかじめ定められた日ごとに物見櫓に登り、四方の空を見て天候を占った可能性も考えられます。
農耕儀礼とあわせた冬至、夏至等の季節の祭りの時には、祭祀権者は斎堂にこもり潔斎を行い、東祭殿から太陽を遥拝するなど定められた様々な儀礼を行い、祭りの後には主祭殿の2階で直会が執り行われたと想像できます。また北内郭の広場やその周辺で、夏至や冬至の日に中国の例にならって日影測定の儀式が行われたことも考えられます。
北内郭の中心線
復元の考え方・経緯等
基本形態
主祭殿は吉野ヶ里環壕集落内で最大規模の建物であり、その主軸が北墳丘墓と南墳丘墓を結ぶ南北軸に一致する建物であることから、北内郭でも祭祀性が高く、北内郭の祭祀の中心となる建物と推定しています。
復元形態を策定するため、参考とした絵画土器や家屋文鏡には、重層楼閣や特徴ある建物の様子や棟、軒先飾りおよびシンボルの鳥が描かれており、弥生時代の建物をうかがい知る有力な資料となりました。遺構の柱間隔、柱太さや柱穴の深さ等の検討により、H5年に奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡から発見された絵画土器に描かれている3層2層建ての楼閣建築を想定しています。
構造形式
吉野ヶ里遺跡の中で最も各の高い建物と考えられることから、当時の最新の技術である総柱型の台輪式の高床建築としました。また、2階床高さ4.5mの高床建築であり、2階床下部には構造的に有効な水平材(貫)が柱に差し込まれていたものと想定しました。
平面形態
3間×3間(12.3m×12.7m)の方形で、一般の弥生時代の堀立柱建物とかなり異なる特殊な形態でした。柱穴形は大規模であり、一部の穴は階段状に掘られており、柱痕も直径40~50㎝と太い柱が確認されました。また、堀形の土は版築(はんちく)状に非常に賢く締め固められていました。
柱間隔は1間あたり4m前後あり、建物の地上部の高さはおよそ地中部の2~3倍以内と考え、台輪を乗せた柱高さを柱間とほぼ同じ高さ(約4.2m)と想定し、中総の床高さを4.5mとしています。
屋根の形態
最も格式の高い建物であり、板葺き、草葺き、構造形式や屋根形態の組み合わせによる計画案を作成し、復元検討委員会において比較検討を行い、建物の形態的・構造的にバランスの取れた計画案を策定しました。
検討委員会での検討の経緯(第1段階)
高さのある建物であるので、風圧を考慮すると、上層部は切妻より寄棟の方が影響は少ない。中層部の屋根をなくして単層とすると、屋根の面積が大きすぎて、おさまりが難しい。以上のことから、寄せ棟で単層の屋根形態とする方針が確認されました。また、主祭殿の性格、機能における検討から、上層が祭祀儀礼に使用されると考えるのであれば、壁をつけ閉鎖的な空間にするのが適当ではないか、草葺き屋根の検討案と比較してはどうかの意見により、第2段階での比較検討が行われました。
版築(はんちく):土壁や土壇の築造法で、板で枠をつくり、土をその中に盛り、一層ずつ杵で付き固めるもの。古く中国の竜山文化に始まり現在まで継続。(広辞苑)
検討委員会での検討の経緯(第2段階)
中層、上層ともに草葺きとして、雨じまい(雨漏り)を考慮した屋根勾配を持たせると、建物が高くなりすぎる。また、屋根が高くなりすぎないようにするためには、勾配が緩くなる板葺きが考えられるが、板葺きは草葺きと比べて技術的に難しく、上層部分を板葺きにすると、雨じまいの処理に問題がある。以上のことから、上層を草葺き、中層を板葺きとする方針が確認されました。また、
- 棟の転びは、古墳時代に入ってから顕著になることから、棟の転びをおさえた形態とする。
- 家屋文鏡等の参考例より、壁は綱代でなく、板壁とする。
- 中層は集会等の多人数で利用されていたことを考慮して、内部空間が大きく取れるよう段階を端に寄せる平面計画とする。
- 上層は、祖霊に豊饒を祈る場とする方針が定められ、民族例より薄暗い空間となるとの指摘を踏まえて、祖例を祀る北側のみ窓を設ける計画とする。
以上の意見を元に、第3段階として、次の基本設計案がとりまとめられました。
検討委員会での検討の経緯(第3段階)
北内郭の中軸線が、夏至の日の出と冬至の日の入り位置を結んだ線と一致することが確認され、北内郭の祭祀性がより明確となったことから、復元検討委員会の見解を踏まえて、祭祀的な荘厳さを表現した意匠として、以下を最終決定としました。
- 構造形式は、当時の最新技術である総柱型の台輪式の高床建築とした。
- 中層床下部には、島根県上小紋遺跡(弥生時代)から出土した柱材等を基に想像される、構造的に有効な貫(水平材)を設けた。
- 地上部の高さは、台輪をのせた柱高さを柱間とほぼ同じ高さと想定し、中層の床高さを4.5mとした。
- 壁は板壁とし、出土したチョウナ(当時の鉋)を根拠とし、チョウナ仕上げとした。
- 屋根の形態は上層部を寄せ棟草葺き中層部板葺きとした。
綱代:竹・葦または櫓等を薄く削ったものを斜めまたは縦横に編んだもの、垣・屏風・天井などとし、または笠・団扇に作り、牛車・輿の屋形・天井にはる。(広辞苑)
東祭殿
- 東祭殿は、北内郭の中軸線である夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上に位置することから、冬至・夏至、春分・秋分を中心とする節季の祭りに関係した施設と考えられます。
- 大嘗祭(だいじょうさい)等からの事例から、冬至の日などに祭祀権者が初穂とともに、ここに籠もり再びここから出ることにより、穀霊の復活を象徴させ、冬至・夏至の日に、祭祀権者がここから太陽を遙拝するなどの行為を行う建物として復元しました。
高床住居(祭祀権者の住まい)
- 『魏志倭人伝』等の記述では、当時のクニの最高祭祀権者は人前にめったに姿を現さなかったことが示されており、祭祀権者の居住の場は、北内郭の中に存在したと考えられます。
- 祭祀権者の公的儀礼の場と、私的生活の場が同一建物内にあるとした場合は、主祭殿が比定されますが、弥生時代の建物は一棟一機能であった可能性が高く、民俗事例や文献資料においても、祭祀儀礼の場と、生活・居住の場は分かれていることが一般的です。
- この高床式建物は、倉庫とは異なる正方形に近い平面形態であり、その配置から主祭殿との関わりの強い建物を考えられるため、祭祀権者の住居と想定しました。
- 祭祀権者の住居は、当時の最新技術である台輪式の高床建築とし、家屋文鏡に描かれた建物を参考として復元しました。
- 1間×3間(4.1m×6.7m)の8本柱建物。
- 梁行1間、桁行2間の高床建物で、祭祀権者の住まいと想定されることから、冬至の最新技術である台輪式の高床建物とし、1階部分に板壁をつけました。
- 梁行が広く、台輪が構造的に保てないため、床束を設けました。
- 屋根勾配は草葺のため45°としました。
- 仕上げは、壁は横板チョウナ仕上げ、1階部分の壁は、家屋文鏡に描かれた高床建物を参考に、綱代を用いることとしました。屋根は草葺きの本葺きとしました。
堅穴建物(従者の住居)
- 内郭内の弥生時代後期後半~終末に属するものとして、ただ1棟検出された竪穴建物です。
- 祭祀権者の住まいに近接する配置関係から、『魏志倭人伝』等の記述を参考とし、祭祀権者の最も身近に使え、その世話にあたる従者の住居として復元しました。
- 5.4m×7.02mの長方形です。
- 最高司祭者に使える従者の住居と想定しました。
- 主柱4本に井桁を渡し、これに垂木をかける。屋根は寄棟で、風格を持たせるために、棟覆は杉皮葺を綱代で押さえる。外壁は横板を杭で止める形としました。
物見櫓
- 北内郭の物見櫓は、南内郭の物見櫓と同じく環壕突出部に配置されており、その平面形態も同一であることから、H元年に南内郭において佐賀県教育委員会により仮復元された物見櫓と同様としました。
- しかし、北内郭における物見櫓は、催事の中心的な役割を担う場所にあることから、単なる見張り台の機能だけでなく、四方をまつる祭祀的な性格も持ち合わせた建物と考えられ、祭祀儀式の場として利用されたことを考慮して上層部に壁を設けました。
- また、高さのある建物であることから、風の影響を考慮して屋根は寄棟としました。
- 物見櫓の壁は、絵画土器に描かれる形態を参考として、板壁を設置しました。
- 1間×2間(3.1m~4.1m)の6本柱建物。
- 推定される柱の深さが深く、基礎(枕木)の痕跡があること、その配置から物見櫓と考え高さのある通柱式の建物としました。
- 弥生時代の絵画土器に表現される建物形態を参考に、高さのある建物として、風の影響を考慮し、屋根は寄棟としました。屋根勾配は草葺のため、45°としました。
- 北内郭の物見櫓は、4棟とも祭祀儀礼の場として使用されたりする機能を考慮して、上層部に壁をつけることとしました。
- 仕上げは、壁はチョウナ仕上げ、屋根は寄棟、草葺きの本葺きとしました。
北内郭西方の高床倉庫群
北内郭西方において検出した4~8本の掘立柱による6棟の建物群跡は、南内郭西方に検出した建物群と同様に、宝物・穀物や農具等を保管するための高床倉庫と考えられています。 古墳時代の家型埴輪には、一般的な高床倉庫な形態の他に屋根倉形式があります。また、4本柱の高床式建物は弥生から古墳時代における西日本一帯から多く発見されていることから、弥生時代においても2つの倉庫形態があったことが考えられます。
4本柱による高床式建物は、簡易な構造形態となり、屋根倉の形態に適します。このため、高床倉庫群のうち4本柱の建物は高床屋根倉とし、他の建物は高床倉庫として復元しました。
高床倉庫は祭祀の道具の倉庫・道具の倉・織物や衣類の倉庫・供物の倉庫・稲穂の倉庫などに使われていたものと考えられています。
斎堂
- 夏至の日の出、冬至の日の入りの線にその主軸がほぼ並行するように配置されており、主祭殿、東祭殿との中間とも言うべき場所に位置しています。
- このことから、祭祀儀礼に関する建物として、古代中国の事例から、祭りの際の潔斎(けっさい)、また、祭りにともなう道具類が置かれた場、斎堂であると想定し、復元しました。
- 1間×2間(3.3m×5.5m)の6本柱。
- 単層の高床建物であり、北内郭の祭祀に関わる重要な建物の一つであることから、冬至の最新技術である台輪式としました。
- 梁行が広く、台輪が構造的に保たないため、床束を設けました。
- 仕上げは、壁は横板チョウナ仕上げ、屋根は切妻、草葺きの本葺きとしました。
- H13.3完成。