北墳丘墓
北墳丘墓~歴代の王の墓~
吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました。このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていたようです。
有柄把頭飾銅剣とガラス管玉
立柱
祀堂
墓道
- 北墳丘墓の南側に付随する道は北墳丘墓にお参りにいくための道と考えられています。
- 墓道内からは祭祀土器や枝のついたままの細い木の棒数本分が出土しました。
- この道は外環壕の外から伸びており、吉野ヶ里集落だけでなく周辺の集落を含めたこの地域全体の「国」の人々が北墳丘墓にお参りに来ていたものと考えられます。
祭祀
祖霊が眠る場所として、吉野ヶ里環壕集落の人々の祈りの対象となったであろう北墳丘墓には朝夕、祖霊への供物が捧げられたと考えられます。北墳丘墓全面から出土した祭祀用の土器や東側の大型土壌より出土した多量の土器はこうした供献が行われたことを示すものでしょう。「北上位、南上位」の構造をもつ吉野ヶ里環壕集落のなかで最も格の高い場所であったと考えられることから、日々の供献を行うのは、一般人(下戸)ではなく、祭祀に従事する祭司者であったと推測できます。
北墳丘墓前面や祀堂では朝夕、火を焚いた後が発見されており、祭りの際に日を利用した儀礼が行われたことが推定できます。こうした日を利用した儀礼として古代中国では生犠を殺し、これを焼いて天に捧げる儀礼が冬至祭天の折などに行われており、中国より新しい祭祀の要素を取り入れたと考えられる弥生時代後期後半の吉野ヶ里集落でもこうした儀礼が行われた可能性があります。
弥生時代には銅剣、銅矛、銅鏡などの副葬品や墳丘などを備え、継続的に祭祀が行われた「墓」が出現します。こうした墓の出現は弥生社会の階層分化の状況を物語るとともに、特定の死者(首長霊)に対する社会的な祭祀が出現してきたことを物語っています。弥生時代に新しく出現してきたこうした状況は縄文時代の死霊信仰を基盤としながら、新たに生成してきた「祖霊」信仰の表れとみることができます。これは農家社会の成立に伴い、一定の土地で世代をわたって労働と収穫(豊饒)が継続していくなかで成立してきたものでしょう。死者の霊全般に対する死霊信仰に対し、祖霊信仰は父方か母方かは別にして、特定の先行世代の死者が系譜的に現成員に連なり、現成員の生活に影響を及ぼすという観念が明確になったものです。重要なのはこうした「祖霊」に対する信仰が階層分化に伴って首長制と結びつき、支配原理として発展していったと考えられることです。首長霊を「祖霊」として祀り特別な聖性を付加することはその霊力を背景とした支配者の支配力をも高めることとなります。
福岡県吉武高木遺跡の青銅器を副葬する甕棺墓が集中する墓域とこれに面した大型堀立柱建物(前期末から中期初頭)、福岡県須玖岡本遺跡の青銅器を多量に副葬する墳墓(中期)、佐賀県柚比本村遺跡の青銅器を副葬する甕棺墓群と大型堀立柱建物、これと一直線上に並ぶ祭祀土坑(中期から後期初頭)など、青銅器の副葬品を有した墓とこれに関連すると考えられる大型建物の存在は特定の死者(首長霊)を「祖霊」として祀ることが弥生時代に出現してきたことを裏付けています。
多くの民俗学者が大嘗祭の儀礼のなかで指摘する、天皇霊の継承により新天皇が誕生するという不滅の霊魂「天皇霊」と、これを継ぐ肉体としての天皇の聖性の観念の原型とも言える不滅の首長霊と現実社会を媒介する聖なる支配者の観念が弥生時代に生成していったと考えられます。吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の築造と北墳丘墓、南祭壇を北端、南端付近に取り込んだ環壕集落の成立、さらに北内郭の成立はこうした「祖霊」信仰を支配原理とした弥生時代の世界観を遺跡としてよく表しています。
さらにそこには北に祖霊を祀る「宋廟」、南に天壇を置く中国の都城の影響を窺うこともできます。吉武高木遺跡や柚比本村遺跡などにみられる弥生時代の首長墓と大型建物等で構成される一帯もこうした「祖霊」を祀る「宋廟」に近い祭祀的性格であったと推定できます。
また弥生時代中期後半には北部九州に鏡を副葬した首長墓が表れます。吉野ヶ里遺跡の長大な列埋葬と墳丘墓の造営などにみられる階層分化と地域的政治社会(「国」)の成立を前提に捉えると、この時期に世俗的権威と祖霊祭祀権とが首長といったひとつの身分に体現される状況が確立したことが窺えます。鏡は祖霊の依代としての祭器で、祖霊祭祀を主とする司祭者としての身分と権威ある首長としての身分を表すものとして副葬されました。この習俗は祖霊祭祀の発展、地域的拡大と共に古墳時代へと引き継がれていきました。鏡の祖霊祭祀としての伝統は『日本書紀』の「景行記」、「仲哀記」に地方豪族の天皇への服属儀礼や『出雲国造神賀詞』の和魂の依代としてのあつかいに見ることができます。
埋葬
規模
平面形
南北約40m、東西約27m以上の長方形に近い形と推定されます。
高さ
黒色土を1.2m盛った土に幾層にもさまざまな土を盛った小山を積み重ねて築かれ、現存高2.5mですが、元来は4.5m以上の高さであった可能性があります。
埋葬の時期
弥生時代中期前半から中頃(2200年~2100年前)
埋葬の特徴(一般の甕棺墓地との比較)
- 大人の甕棺
- 大人用(子供用なし)
- 外側・内側を黒色顔料(漆または炭化物)で真っ黒く塗る
- 銅剣や管玉、絹など高い身分を示す副葬品が出土
- 甕棺の埋葬密度が低い
※北墳丘墓内では、複製を展示しています。
被葬者
埋葬の特徴から、歴代の主張など高い身分のものと考えられます。
人骨の出土
14基中、6基から歯と骨片が少量出土しました。
弥生時代後期の墳丘墓
弥生時代の終わり頃には墳丘墓に眠る首長たちの霊は北内郭の祭殿で壮大にまつられていたと考えられます。
埋葬手順
甕棺による埋葬方法は現在、日本では佐賀や福岡を中心とする北部九州で多く発見されている特徴的な方法です。
他の埋葬方法
吉野ヶ里遺跡から発見された甕棺墓が約3,100基以上に対し、時代、身分の差などにより埋葬方法が異なる墓が400基以上見つかっています。
墳丘築造技法
北墳丘墓の構造には、当時としては非常に高度な盛土技法が用いられています。このような技法は中国から伝来したものと考えられ、日本では他に例を見ない技法です。北墳丘墓においてこの技法がみられることから、大陸の知識をもつ人が弥生時代中期に既に関わっていた可能性があります。この築造技術を示す版築の跡は、北墳丘墓内の遺構面の見学通路から見ることができます。
発掘調査、保存
吉野ヶ里遺跡の発掘調査は昭和61年に始まり、平成元年の2月に大々的に全国に報道され「邪馬台国の出現では?」と話題を独占しました。この吉野ヶ里フィーバーの中、北墳丘墓に埋葬されていた大型の甕棺から有柄銅剣やガラス製管玉が出土し、3ヶ月間で100万人もの人々が吉野ヶ里遺跡を訪れました。
また、この北墳丘墓の出土品がきっかけとなり、平成3年に特別史跡に指定され、平成4年には、遺跡の保存と活用を目的に国営公園化が決定しました。北墳丘墓の遺構の保存のため埋め戻されましたが、平成20年2月に再び発掘当時の状況が公開されました。「北墳丘墓」の内部は展示施設となっており、発掘された状態での本物の遺構及び甕棺を見学することができます。
1.遺構保存処理
2.本物の甕棺の展示
3.建築物の制約
二つの中軸線
集落の中軸線となる南北軸
夏至の日の出、冬至の日の入りと一致する北内郭の中軸線
集落内の三つの地域と北上位、南下位の空間観念
復元対象時期である弥生時代後期後半から終末期の環壕集落内の空間は集落北部の「北墳丘墓と北内郭の地域」、中央部の「南内郭の地域」、南部の「南のムラと南祭壇地域」、に大きく別かれています。
これらの空間配置は北により聖約、祭祀的性格の強いものを配し、南に世俗的、生活的なものを配しており、「北上位、南下位」の空間観念に基づいていると考えられます。
北墳丘墓と北内郭の地域(吉野ヶ里環壕集落の祭政の中心、宋廟)
中期前半に築造され、後期後半に至るまで祭祀の対象となっていた北墳丘墓と二重の環壕で囲まれ、その内部に建物の中心を北墳丘墓の軸線と合わせた弥生後期の大型堀立建物(主祭殿)を置く北内郭が存在します。
北内郭はこうした象徴的な大型建物の存在や区画の閉鎖性、祭祀関係の遺物の出土等から祭祀の中枢施設と考えられます。
北墳丘墓の前面には北墳丘墓と南祭壇の中軸線を結ぶ線上に並ぶ小規模な堀立柱建物(祠堂)と立柱も存在します。南墳丘墓が墳墓ではなく祭壇であることが明らかになったことから、北墳丘墓が環壕集落内で唯一の祖霊を祀る場であったことが確認されました。
これらのことから、この地域は集落内で最も祭祀的性格の強い(ハレ)の場であり、祖霊を祀る宗廟であったと考えられます。