古代の森
吉野ヶ里遺跡の北側には、シイやカシなどの照葉樹林が連なっていたと考えられています。これまで、様々な木製の道具、建物の部材などが発見され、また、多数の建物跡が確認されているよう、この吉野ヶ里に暮らした人々は、森を切り開いて、森の恵みをうけながら、クニづくりを進めました。
弥生時代の中~後期には、この森の中には建物は建てられませんでしたが、森は南北の帯状に切り拓かれて、2列に甕棺を埋葬する列状の墓地がつくられました。その長さは、南北約600mにも及び、日本で最大級の墓列です。
また、時代が変わって、奈良時代には、古代の森ゾーンの南側に、大宰府と肥前国府を結ぶ官道(現在で言う国道)が、東西を横切るようにつくられました。丘陵部は大規模に切り通しがつくられ、一直線の道が通されました。
また、この官道に近い場所には、複数の堀立柱の建物跡や井戸枠があり、机のような板材や、井戸枠からは墨書きされた木簡も出土しており、奈良時代~平安時代に掛けて、役所のような場所であったと考えられています。
古代の森ゾーンのほぼ中央には、「古代の森体験館」があります。吉野ヶ里での森と人との関わりが学べ、体験学習や、休憩等ができる多目的な施設です。園内移動バスも、この建物前から発着します。
吉野ヶ里遺跡の植物
弥生時代に、吉野ヶ里遺跡に人が移り住むまで、吉野ヶ里の丘陵地には、カシやシイ等の照葉樹林を中心に、コナラやクリ等の落葉樹が生えていたと考えられています。
稲作が本格的にはじまり、吉野ヶ里のクニが徐々に大きくなるにつれて、伐採等によって森の姿が徐々に変化したと考えられています。
吉野ヶ里遺跡から出土した木製品
吉野ヶ里遺跡の西側沖積地部分の発掘調査では、丘陵上の遺構からは普段見つけることのできない木製品が多数出土しました。出土した木製品には、鋤(すき)や鍬(くわ)、鎌(かま)、斧、臼(うす)、杵(きね)などの農耕具のほか、容器やネズミ返しなどの建築部材も多数見つかっています。
鋤や鍬などの耕す目的に使われる農具は、アカガシなどの堅牢な木材がその材料として用いられています。また杓子や取手付きの容器の中には、木目がしま模様に見えるチシャノキが使われるなど、それぞれの目的や用途に応じた木材が選択されるようです。
また、木の道具は、木そのものを道具として使うこともありますが、斧柄や鋤先など石や鉄などの鋭利な道具と組み合わせて使用する場合もあります。鋳型鉄斧用の組合せ式斧柄は、ほぼ完全な形でみつかり、斧柄の構造が分かる貴重な発見例です。
木でつくられた祭祀具も発見されています。剣や戈を模倣した武器形木製品のほか、当時使われていた船を写した船形木製品などがあります。この船形木製品は、船首と船尾がそり上がったいわゆる「ゴンドラ」の形をしています、このゴンドラの形をした船は、これまでのところ発見されていませんが、銅鐸や土器に描かれた例があり、弥生時代に使用されていた船をモデルに製作されたと考えられています。この船形木製品のヘリには、櫂座(かいざ)の表現とみられる凹凸もみられます。
吉野ヶ里遺跡でみつかった木製品は、これまで200点をこえますが、未成品は2点しかなく、製品の数が多いことが特徴として挙げられます。
吉野ヶ里での森の移り変わり
土壌中に含まれる有機質の変化、種子・花粉、又は出土した木製品等を分析したところ、吉野ヶ里遺跡では、次のような森の移り変わりがあったと考えられています。
弥生時代のはじめ頃
弥生時代の初め頃は、コナラ等の落葉樹が急速に減少し、ススキ等が増え、樹木の伐採とともに、草地が広がっていたと考えられます。カシの花粉には大きく変動せず、山地ではカシを中心とした常緑樹林から大きく変化していなかったと考えられます。
また、クワの花粉が増大していることから、絹をつくるため人工的にクワ栽培が始められたようです。
弥生時代の終わり頃
弥生時代の終わり頃は、低地ではイネの植物体や花粉が増えており、水田稲作が本格的に始まったと考えられます。エノキやムクノキが増えていることから、人口の増加により、建築材や器具類などのために伐採が進んだと考えられます。
エノキ・ムクノキは、二次林と呼ばれ、原生林が伐採や災害によって破壊された後、自然に、または人為的に再生した森のことです。
このように、人間が移り住み、森林を伐採することで、森の姿が徐々に変わっていったと考えられます。
古代の森ゾーンは、脊振の山地から続く北側は、縄文時代から弥生時代前期にあったと考えられる常緑樹林とし、南側にかけては弥生時代の終わり頃の落葉樹が混じり、一部にはススキ等の草地が広がるような植栽を目指しています。
生態移植による森づくり
古代の森ゾーンは、文化財の発掘調査によって、全域の表土が全て剥ぎとられました。落ち葉等の腐食や、昆虫や菌類等の多種多様な生物、植物の種子などが含まれた表土が無い状態は、植物の生育にとって、きわめて厳しい状況となります。
生物の多様性がある原生に近い森としていくために、古代の森の中心付近では、森林の表面を土ごと移植する「生態移植」という方法で、森づくりが進められました。
佐賀市北部の嘉瀬川ダムの完成により、失われる予定であった樹林を対象に、古代の森ゾーンの植栽計画に合った樹林を選定し、表土ごと吉野ヶ里に運搬しました。
工事の概要
1. 堀取り:できるだけ土壌を崩さぬように掘り取ります。
2. 運搬:トラックにより、吉野ヶ里まで運搬します。5m程度の樹高までは、剪定せずに運搬できます。
3. 植付け:植栽地の地形と、樹木の傾きとを調整して、ユニットの傾きを決めて植付けました。
生態移植のねらい
森林の表土には、土壌生物や、植物の種子・胞子等や、土壌生物等、地域の多様な生物資源が含まれています。古代の森ゾーンの中央あたりに生物多様性の高い生態移植を行い、年月を追って、その周辺にも野草や土壌生物等の地域の自然資源が波及し、古代の森全体の、生物多様性が高まることが期待されます。
移植の対象となった森林は、佐賀市富士町の山地の斜面に生育していましたが、海抜250m程度であり佐賀の平地部の植生と大きく変わらないこと、また、嘉瀬川ダムが完成した場合に水没する場所にあったため、地域の自然資源を活かした森とするため、約20km離れた吉野ヶ里に移植されることとしました。
奈良時代の官道
奈良時代は、大和朝廷が律令国家を目指し、中央集権の政治体制づくりが進められた時代です。地方においては、国ごとに国府が置かれ、全国に、国府を結ぶ道路が計画的につくられた時代です。
この吉野ヶ里では、大宰府から肥前の国(現在の佐賀県・長崎県)に延びる官道が東西に横断し、あわせて、官衙(役所)とみられる建物跡が確認されています。官道は、奈良時代につくられた枡状の地割である条里制とあわせ、直線として計画的につくられ、吉野ヶ里の段丘部には大規模な切り通しが掘られています。